先日実家に帰ったときに、自分の本棚から何冊かの本を持ち帰った。
その1冊が谷川俊太郎氏の詩集で、
久しぶりのその本を電車の中で読んだりしている。

かつて詩を読むのが好きで、谷川俊太郎田村隆一飯島耕一草野心平山之口獏、そして金子光晴など、
いろいろな本を読んだりしたものだ。
今は昔で、そんなことは今の自分に何も生かされていなくて、
それはこのブログを読んでいる人にはよくわかるだろう。
何も考えることなく吐き出されるこの文章は、
まったく情けないというか、恥ずかしいと言うか。
それでも、詩を書いていたことがあるというさらに恥ずかしいことがあって、
赤面する意外にない。
ただ、文章には生かされなかった詩が、
写真を撮る上ではもしかしたら少し役に立っているのかも、と思うことがときどきある。
詩の詩たるゆえんは、日常感じているのと違う感情を呼び起こしたり、
体のどこかに湧き上がっているが言語化できないものをなんとか言葉の並びの中に発見しようとしたり、
そういう見えない自己の内部を何とか表面に出そうと苦労することで、
そういう作業は写真を撮り、まとめることと似ているような気がする。
それは思い過ごしで、「気がする」の域を出ないものかもしれないが、
私が写真を撮ることの動機に繋がっていることは確かだ、
というのが今回谷川俊太郎氏の詩集を読みながら思ったこと。

詩を贈ろうとすることは

詩を贈ろうとすることは


内容とは何の関係もなく。
秋の雑草。